時々、人と「幸せのいきち(閾値)」という話をすることがある。過去にもこのブログにも類似のことを言及したことがあるし私と話をしたことがある人はもしかすると似たトピックで話をすることがあるかもしれない。
ここで言う「いきち(閾値)」は、いわゆるハードルのようなものだ。技術用語で反応や判定の境目となる限界値のことで自分はこれを何かしら状況が変わる、あるいは自分の中で意味を持つというボーダーラインの意で使っている。この閾値はできるだけ低く設定しておくといいと思っていたほうがよいと思っているのが私の持論。
たとえば、私は毎朝寝起き直後に散歩をしている。その散歩の中で外に出た瞬間に「あ、今日は天気がいいな」と思えたり、「桜が咲き始めているな」と気づいたり、「今日は信号にあまり引っかからずに歩けたな」と感じたりする。そんな些細なことでも、自分の中の「幸せのいきち(閾値)」を超える出来事にしておく。もちろん、それは飛び上がるような喜びではない。でも、「あ、今日も朝からいいことがあったな」と思える1
いろいろな情報がとても速いスピードで自分の周りを流れていく時代になって、その量もおそらく指数関数的に増え続けている。そういう環境にいると本当なら「よかったな」と思えたはずの小さな出来事や「嬉しい」と感じられたはずの瞬間をそのまま見逃してしまうことも多いのではないかと思う。
冒頭の私があげた本当にささやかな幸せな出来事以外にも、たとえば、とてもシンプルな課題を解決できたとき。予定していた時間より少し早く終わったとか、計画していた量を少し上回ったとか。難しい課題を乗り越えたときには自然と「やってよかった」と思える。でも、そこまでではない小さな出来事でも、「あ、これもよかったな」と思えるようにしておく。
世の中の情報の流れや時間の流れは、おそらくこれからも速くなる一方、ゆっくりになることはないからこそ、どんな小さなことでも「出会えてよかった」と思えるようにしておくことは、今の時代を生きるうえで意外と大事なことなのかもしれない。
もしかすると、私たちより前の時代を生きていた先人たちの中にも同じようなことを考えた人がいたのかもしれない。
...と、そのあと少し気になって調べてみたのだが、実は似たような考え方は昔からいろいろな形で語られているらしい。たとえば古代のストア哲学では「幸福は外側の出来事ではなく、それをどう受け取り方にある」という考え方があるという。
人を不幸にするのは、物事そのものではなく、それについての考え方である。
エピクテトス(Epictetus, 紀元50年頃–135年頃)
あとは、快楽主義2として、
自然で必要な欲望は簡単に満たせる。それを知る人は幸福である。
というのもあった。
また、文化の違いという観点では、日本は世界的に見ても「幸せの基準を上げやすい社会」と言われることもあるらしい。周囲との比較を無意識にしやすい文化であったり、謙遜や自己改善を重んじる価値観があったりするため、満足のラインが少しずつ上がってしまいやすいのだそうだ。そう考えると、意識的に「幸せのいきち」を低くしておくというのは、もしかすると自分なりの小さなバランスの取り方なのかもしれない。
そんなことを思いながら、また明日も散歩に出ようと思う。
たぶん明日も、どこかで自分の「幸せのいきち」を小さく超える瞬間がある気がしている。







最近のコメント