徒然日記 – 2026年1月31日

朝起きて、コーヒーとクッキー。週末はほとんど朝食べずに過ごすことが多いのだけど、週末のリズムが整う感じがする。あと内蔵がつかれてる感があるのでこれでちょうどいい。

午前中に週末恒例の風呂掃除。床や浴槽だけでなく、壁も全部洗う。24時間換気をしていると、もっときれいな状態を保てそうな気がするのだけれど、実際には意外と壁が汚れていることが多い。空気が動いている分、ホコリや湿気が集まるのだろうか。

お昼ご飯は外食。昼からビールとハイボール。

酔いを覚ますのと散歩を兼ねて3.5Kmくらいあるく。自宅に帰って、盆栽コーディング。
いわゆる趣味のプログラミングで、仕事をしている中で「これあったら少し便利だな」と思うChrome拡張を作る。最近はこれがマイブームで、Codexと一緒にあれこれ試しながら形にしている。成果物というより、育てている感じに近いし、更に言い換えると優秀なエンジニアの人と一緒にコーディングしてる感覚に近くて懐かしい感じがする。

徒然日記 – 2026年1月30日

普段と違うコースを3.3Km散歩。
いつもだと待つ赤信号をどうしても待てなかったので交差点の青の方向に歩き出した。いつもと違う太陽の角度の日差しを受けながら歩いたのだけれども、気分転換にあってこれはこれでよかった。ちょっと車が多かったけれどもトレードオフ。

神社によって手を合わせて散歩終わり。

今週最終営業日の仕事を終えてクールダウンしたかったので途中下車して居酒屋さんへ、串焼き5本とパリパリピーマン(肉味噌付き)、おでんをつまみつつ、ビール及び焼酎のお湯割りを頂いて帰宅。

神社境内の大きな木を見上げた写真

大きな木だ

生成AIと同じネットの情報を使っているのに、なぜ思考の手触りが違うのか

前回の記事では、ポッドキャストをNotebookLMに蓄積し特定の人の思考を「参照先」として壁打ちするというAIの使い方について書いた。

その後、ふと一つの疑問が浮かんだ。

生成AIも、結局はインターネット上のコンテンツを学習しているのだとすると、自分がやっていることと、何が違うのだろうか。

少し意地悪な問いかもしれないが、この違いを整理しないと話が感覚論で終わってしまう気がしたので、散歩をしながらいろいろ考えてみたら考えがまとまったのでこれも記録しておく。

一見すると、やっていることは同じに見える

例えばChatGPTやGeminiに、

「◯◯という経営者の思考を前提に考えてください」

と伝えることはできる。

ロール指定やペルソナ指定を使えば、それっぽい回答は返ってくるし、ここだけを見ると、生成AIに頼んでもポッドキャストを蓄積して壁打ちしても同じことをやっているように見える。
でも、実際に使ってみると、 思考の手触りが明らかに違う1

違いは「学習データ」ではなく「参照の仕方」にある

この違いは、「生成AIの学習データは何か」という話では説明できない。
重要なのは、 どの集合を、どんな前提で参照しているか だ。生成AIが扱っているのは、

  • 不特定多数の発言
  • 不特定多数の立場
  • 不特定多数の価値観

が混ざり合った、非常に広く平均化された知であるのに対して、自分がやっているのは、

  • 特定の人が
  • 公の場で
  • 時間をかけて語ってきた発言だけ

を、意図的に切り出して参照することをおこなっている。同じインターネット上の情報でも、 参照している集合の性質がまったく違う

平均化された知と、固定された文脈

生成AIは、設計上どうしても、「この状況では、多くの人がこう考える可能性が高い」という方向に寄っていく。

これは欠点ではなく、汎用性を持たせるための必然だ。
ただ、その結果として生まれるのは、 誰のものでもない思考 でもある。

一方、特定の人の発言を参照する場合、

  • 偏りがある
  • 矛盾もある
  • 時間による変化もある

でも、その分、「この人なら、ここを問題視しそうだ」という感覚が立ち上がる。
自分は、ここに価値を感じている。
人が他人の意見を参考にするとき無意識に次のことを判断している。

  • これは誰の考えか
  • どんな立場で語られているか
  • どこまで信頼してよいか

生成AIの出力には、この「帰属先」が存在しない2。あるのは、もっともらしい文章だけだ。
一方で、ポッドキャストを参照している場合、その考えには必ず「この人のものだ」と指差せる帰属先があるし、それはパーソナリティ自身の言葉として発信されたものである。
個人的にこの差は、意思決定をしていくための壁打ちの場面では想像以上に大きい。

文脈を選ぶ責任を、誰が持っているか

もう一つ大きな違いは、 文脈の選択責任にある。
生成AIの場合、

  • どの情報を
  • どんな重みで
  • どう組み合わせたか

はブラックボックスなのに対して、自分のやり方では、

  • この人の考えを参照する
  • この人の文脈を使う

という選択を、自分自身が明示的に行っている。
つまり、判断に使う「前提」を人間側が引き受けている。この違いは、実務や経営の場面ではとても重要だと思っている。

ここまで整理してみると、自分が生成AIに求めている役割は、はっきりしてきて、何か自分自身が壁打ちをしながら思考を深めたり考えを進めていくときに求めているのは「AIに考えさせること」ではなく、人が考えてきたことを、「引き出しやすくする媒介になること」だ。

NotebookLMは、その役割にかなり向いている。
生成AIも私もそうした意味では同じインターネット上の情報を使っている。
それでも結果が違うのは、

  • 平均を取りにいくか
  • 文脈を固定しにいくか

という、参照の姿勢が違うからだ。どちらが正しい、という話ではない。ただ、意思決定や壁打ちの場面では、私は後者のほうがしっくりくる。生成AIがどんどん賢くなる中で重要なのは、何をAIに任せ、何を人が引き受けるのかを意識的に設計することだと思っている。

私にとっては、

  • 思考の参照先を選ぶこと
  • その文脈を信頼するかどうかを決めること

は、人間側の仕事だ。AIは、その補助線を引く存在でいい。

おわりに

前回の記事と、今回の記事で書いているのは、どちらも「AIの使い方」というより、人がどうやって考えてきたかを、どこまで外に出せるか という話なのだと思っている。
生成AIは、その延長線上にある。便利さに目を奪われる前に、どの文脈を使って考えているのか。その問いを持ち続けたい。

  1. あくまでも個人の感触ではあるが明確に諸元を示してくれる安心感は明らかに違う[]
  2. 参照情報を示されるときはあるがその参照先の確度というか質のばらつきは事実としてあると思う[]

通院 – 2026年1月28日

朝から病院に通院。
稀に急に調子崩したり調子が悪くなることがある。年齢相応か。飲み薬等々をもらって撤収。

そのまま駅まで徒歩で移動して散歩代わりにする。2.4Kmくらい歩く。

ポッドキャストをNotebookLMに預ける理由(思考の“参照先”をつくるためのAI活用)

結論から書くと、自分は生成AIと壁打ちするときに、「素の生成AI」ではなく、NotebookLMを介して普段聞いているポッドキャストのパーソナリティーを相談相手として使う、ということを試している。

ChatGPTやGeminiといった生成AIと壁打ちすることもあるのだけれども、そのときに生成AIそのものに相談するのではなく、普段聞いているポッドキャストのパーソナリティーを前提にして考えてもらう。ポッドキャストで実際に語られた内容を参照しながら壁打ちをすると、あたかもそのパーソナリティーがAIを介して壁打ち相手になってくれているような感覚になるし、ファクトとしても過去そのパーソナリティーがポッドキャストを介して行われたアウトプットを諸元として参照してくれる。

今回は、そんな使い方についての話。


AI活用は、いつも「新しいこと」の話になりがちで、その言葉を聞くと、

  • これまで人にしかできなかったことができるようになる
  • 生産性が劇的に上がる
  • 仕事が置き換わる

といった文脈で語られることが多い。

ただ、自分自身が最近実感しているのは、AIは新しい思考を生み出す存在というより、すでに行っていた思考プロセスを外に出す装置 という感覚だったりする。
その感覚を一度整理する意味でも、今回まとめてみることにした。
最近、その感覚が一番しっくりきたのが、ポッドキャストとNotebookLMを組み合わせた使い方だった。

ポッドキャストをNotebookLMに入れ始めたきっかけ

最初のきっかけは、かなりシンプルだった。移動中などに、購読しているポッドキャストを聴いていて、

  • あの回、何を言っていたっけ
  • どんな文脈でその話が出てきたんだっけ

と、あとから振り返りたくなることが増えてきた。

その延長で、ポッドキャストの音声データをNotebookLMに預け、文字起こしや要約的に内容を把握する、ということを始めた。
これはこれで便利だったのだけれども、複数回のエピソードを蓄積していくうちに、自分の中で使い方の軸が少しずつ変わっていった。

先に明確にしておくと、ここで書いているのは ポッドキャストの要約精度を上げる話ではない。 もちろん、ある程度エピソードを溜めれば、個々の回の要約は作りやすくなる。
ただ、それは副次的な効果であって、自分が一番価値を感じているポイントはそこではない。

自分が重要だと思っているのは、その番組を「コンテンツの集合」ではなく、発信者の思考や判断の“参照先”として扱える という点なのではないか、ということに最近気付いた。

思考の「コア」を集めている

NotebookLMにポッドキャストを蓄積しているとき、それを「何かの情報を集約する場所」として扱っている感覚は、あまりない。

むしろ意識しているのは、 その人が繰り返し語ってきた考え方のコアを集めることだ。

  • どんな前提から話し始めるのか
  • 何を当然のものとして扱っているのか
  • 数字を見るとき、どこを疑うのか
  • どんな場面で慎重になり、どんな場面で踏み出すのか

こうしたものは、1回の発言や1エピソードでは見えてこない。
複数回のポッドキャストを通して初めて、その人の思考の重心やクセが、少しずつ浮かび上がってくる。

私にとって、ポッドキャストをNotebookLMへ蓄積させることは、情報を整理することが主目的ではなく、 壁打ちを成立させるための土台を作る行為に近い。

AIに対して、「このポッドキャストを発信している経営者やビジネスパーソンの思考を、参照先として固定した上で壁打ちをする」というイメージで、NotebookLMにストックしていっている。

「そういえば、あの人がこんな話をしていたな」から始まる

実際の使い方は、とても人間的で、事業や日々の業務において何かしらの課題に対する解決策を考えているときに、

  • 「そういえば、あのポッドキャストでこんな話をしていた気がするな」
  • 「あのパーソナリティの人なら番組で話をしていたあのトピックをベースにどう考えるかな」

という、曖昧な記憶が引っかかったり、どうするだろうという推測が生まれる。

具体的なトピックであればどの回だったかは覚えていないし、正確な言い回しも思い出せないし、理由ははっきりとはわからないけれども、特定のパーソナリティの方の発想に何かしらを求めたりといった引っかかり自体は、自分の中では無視したくないサインだったりする。
そこで、その番組を蓄積したNotebookLMにたどり着き、その人の思考の前提を踏まえた上で、今の課題を投げてみる。このときにやっているのは、

  • 正解をもらうこと
  • 判断をAIに委ねること

のいずれでもなくて、聞いているのは、もっと手前の部分だ。

  • この人なら、どこを論点に置くか
  • どこに違和感を覚えそうか
  • 過去に似た構造の話をどう語っていたか

つまり、判断に入る前の「思考の当たりどころ」を参照している。

すごくラフに書くと、自分が抱えた課題の相談相手として、ポッドキャストの番組を介してヒントを得られそうなパーソナリティーを選び、その人の思考を参照先として固定した上で、AIを介して壁打ちをしてもらっている感覚に近い。

これは「コミュニケーション量」の話でもある

少しオフトピックではあるけれども、この使い方がしっくりきた理由を考えていくと、コミュニケーション量という話にもつながっている気がしている。

人と人がうまく壁打ちできるのは、

  • どれだけ頻繁に接しているか
  • 本筋だけでなく、雑談や脱線をどれだけ共有しているか

といった、文脈の厚みが効いている。

人と人とのブレストやディスカッションも、実際には雑談や脱線を含みながら進んでいく。
そうしたオフトピックの積み重ねがあるからこそ、

  • 相手が何を大事にしているのか
  • どこで引っかかる人なのか

が、なんとなく分かってくる。

ポッドキャストというメディアは動画メディアと比べると、きれいに整理された主張だけでなく、本筋から少し外れた話も含めて発信されることが多い。

だからこそ、 思考のコアを掴む素材として、とても相性がいい というのが、最近の自分の発見だった。

NotebookLMでの壁打ちは、人のコミュニケーションの延長線上にある

こう考えると、NotebookLMの上で行っている壁打ちは、まったく新しい行為というより、人がこれまで雑談や継続的な対話を通して相手の考え方を理解し、相談してきたことを別の形で再現しているだけなのかもしれない。

AIがすごい、というより、 人のコミュニケーションの構造を、うまく借りている という感覚に近い。
AIは人の代わりに考えてくれる存在ではなく、ただ、

  • 「あの人、前に何て言ってたっけ?」
  • 「どこを論点にすべきだろう?」
  • 「こういうとき、この人だったらどう考えるだろうか」

といった、 考える前の準備運動を驚くほどスムーズにしてくれる。

その意味で、NotebookLMは自分にとって知識管理ツールというより、思考の参照先を外に持つための装置になっている。

この使い方は、多くの人に刺さるものではないかもしれないけれども、自分がどう考え、どう判断しているかをきちんと外に出して使いたい人にとっては、現実的で再現性のあるAI活用の一つだと思っているのでまとめてみた。

徒然日記 – 2026年1月26日

朝散歩2.5Km。
何故か予定が詰まっていたのであっという間に時間が過ぎる。

終業後、日本酒が好きな社内のメンバーと日本酒を飲む会が開催されたので「おでん調達係」としてセブンイレブンに買い行き、レジの横にあるおでん鍋にあるものから見繕っていったのだけれども、容器にランダムにどんどん商品を入れていってもらったのにレジの方がすべて品名と数を完全に頭の中に入れていたので素直に感動してしまった。自分だと絶対に覚えきらない。

アメリカジョッキークラブカップ(AJCC) – 2026年1月25日

アメリカジョッキークラブカップ(American Jockey Club Cup)。
第二次世界大戦を経て同盟国となったアメリカと日本の間のアメリカ側からの友好関係構築の一環として創設された賞。競馬ってこういう「賞」の歴史も見ていくと現代史だったりも見えておもしろい。

予想

8歳だけれども何故か見ていてすごく気になったアルビージャを入れてみた。

🛡 ワイド

  • ドゥラドーレス × ショウヘイ
  • ドゥラドーレス × ジョバンニ

🎯 三連複

  • ドゥラドーレス − ショウヘイ − ジョバンニ
  • ドゥラドーレス − ショウヘイ − マイネルエンペラー
  • ドゥラドーレス − ジョバンニ − マイネルエンペラー
  • ドゥラドーレス − ショウヘイ − アルビージャ

結果

  • ⭕️ 🛡 ワイド / ドゥラドーレス × ショウヘイ (3.8倍)

三連複、ベテラン馬いれたのはよかったのだけど、アルビージャではなくてエヒトだった。
14番人気、9歳馬だったけど最後すごかったな。次回同じ様な長距離レースで頭数多めのレースのときにベテラン馬いれるバリエーションもう少し増やすのやってみようと思った。

北康利「白洲次郎 占領を背負った男」読了 – 2026年1月24日

北康利「白洲次郎 占領を背負った男 (上) (講談社文庫)」「白洲次郎 占領を背負った男 (下) (講談社文庫)」上下巻を読了。

以下、マークアップしたところを中心にまとめ。

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ダイレクションを出す – 2026年1月23日

朝散歩は2.4kmと短め。気温はマイナス3度。曇り空に加えて風もあり、体感温度はなかなか厳しい。歩いているうちに体は温まるものの、指先や耳に冬の本気を感じる朝だった。

散歩中に考えたこと。

今の自分のポジションで「ダイレクションを出す」という行為について、改めて考えさせられる場面が続いている。特に、その意図を受け止め、現場との間に立ってくれているマネジメントレイヤーの存在は本当に大きい。方針を示すだけでは仕事は前に進まず、それを翻訳し、調整し、実装に落とし込む役割があって初めて組織は動くのだと思う。

一方で、マネジメントレイヤー介さずに自分が発信するメッセージを元に現場の判断でスピーディーに動いてもらえることもある。ただ、その過程で仮に齟齬が生じたときに、それをきちんと整え、最後まで責任を持ってやりきる覚悟は、ダイレクションを出す側が持たなければならない。無責任なことは言えない、という意識は常に持っておきたい。
だからこそ、個人の頑張りだけで物事をスケールさせることには限界があり、マネジメントレイヤーの協力は本当に重要だなと改めて思う。

最近よく耳にするホラクラシー組織やティール組織といった話題では、ヒエラルキー型組織への否定的な意見が語られることが多い。ただ、仮にホラクラシー的な構造を採用したとしても、そこに所属する一人ひとりが相当高いレベルでセルフマネジメントできることが前提になるはずだ、とも思う。
そして、現時点でそれがうまく機能している組織があるとすれば、それは偶然ではなく、時間をかけた文化づくりや、相応の投資を積み重ねた結果なのだろう。

終業後は会食のため外に出て、そのまま一週間が終了。
今週も色々あったけれども、来週へ続く。

今日の一枚(夕陽) – 2026年1月22日

オフィスの窓から方角と季節でいろいろ景色がみえるのだけれども、この時期の西の方角をみたときの景色が一番好き。

会社の車窓から見える夕陽

富士山のシルエットが綺麗に見える